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「イサム・ノグチ 幻の原爆慰霊碑」 |

新日曜美術館で【イサム・ノグチ 幻の原爆慰霊碑】を観た。彼のその人生を貫いた誠実さに触れたような気がして、凄いと思った。
【1904年日本人の父と米国人の母の間に生まれた】
幼い頃初めて来た日本は日露戦争直後。たしか司馬遼太郎によれば「極めて危うい辛勝だったにもかかわらず、実態を知らない民衆が身の程知らずに浮かれ立つ」。その異常な国粋主義への沸騰が、第二次世界大戦での完璧な敗戦の伏線になった時代。
【美術なら国境を超え受け入れられるはずだったから】
帰国したそんな日本が嫌で、彼は一人米国へ戻る。しかしそこも日系移民蔑視の眼があった。二十歳になった彼が美術を選択したのも、そういった環境、生い立ちからだという。どちらの祖国へ行っても受け入れられない自分、居場所がない彼。
【西方に「いく」と東から「つくる」平和大橋】
そうしている内いよいよ祖国同士の戦争がはじまる。米国の日本人の役に立とうと志願して収容所へ入る。やがて終戦、原爆投下を知った彼は、今度は米国人として強い衝撃を受ける。6年後の1951年、自責の念から被災した廣島へ入った。平和記念公園の建築が始まっていたからだ。そこで丹下健三に依頼され設計したのが平和記念公園の東西を結ぶ二つの橋。広島の人なら誰もが見慣れたあの橋が、そんな歴史を持つものとはついぞ知らなかった。犠牲者への鎮魂と生き延びた人々への励ましの意味がこの名前にこめられたらしい。
【「魂を抉りとられるほどの」落胆】
橋の出来の素晴らしさに丹下は、慰霊碑のデザインも依頼する。これこそ両祖国の架け橋となるべき自分の役割だと使命に燃える彼。しかし魂を込めて創った彼の原案は、製作委員会から無惨にも却下される。理由はこうだ。「彼は原爆を落とした側の人間だから」と。その時の彼の日記には「言葉に言い表せない程の衝撃だった。」と記されているという。
【人の役に立つものをつくる】
最近葉山の現代美術館で、当時廣島で製作した幻の原爆慰霊碑の型が発見された。さらにその後もモデルは、香川県牟礼町のアトリエで生涯あたため続けられた。
【彼は諦めない】
何故か?その謎を解く一例が、先日23年かけてグランドオープンした北海道「モエレ沼公園」の設計にみられる。誰でも自由に自分也に楽しめるというモエレ山の「プレイマウンテン」のコンセプトは、実は原爆記念碑よりずっと
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