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白洲次郎 |

1902年2月17日、兵庫県生れ。180cmを超す日本人離れした長身&ダンディな風貌。17才でケンブリッジ大学に留学、1928年・26才まで英国で過ごし、ブガッティとベントレーを乗り回しつつQueen's Englishと英国流のマナー・着こなし・コミュニケーションを身につける。妻正子によれば、寝言は全て英語だったと言う。裕福な商家だった実家の破産による帰国後、英字新聞記者を経て貿易関係の職を渡り歩き世界を股にかける生活を送るが、昭和15年、対米開戦と日本の敗北、東京の荒廃と食糧難までを予測して、東京町田に江戸時代に建てられた古い農家と田畑を求め、18年に都内から引っ越して半農の隠遁生活に入る。
彼の本領発揮はその後。敗戦後、妻正子の父を通じて戦前から知己を得ていた吉田茂に請われ、その右腕として対米交渉に従事。憲法制定に深く関与する等、戦後日本の立て直しにおいて大きな役割を果たす。当時アメリカ人と対等に渡り合った唯一の日本人。アメリカから見れば、従順ならざるただ一人の日本人。サンフランシスコ講和条約締結の場では、吉田茂の英語の演説原稿を直前に巻紙に書いた日本語に差し替えさせ、それを羽織袴姿で読み上げるように仕向けるなど、負けん気の強さを遺憾なく発揮。吉田内閣では貿易庁長官も努め、通産省創設にも腕を振るった。
戦後処理が終わった後はあっさりと政界から身を引き、その後は東北電力会長・大沢商会会長等の職務を歴任。公職引退後も80才過ぎまでPorsche911を乗り回し、時には友人であったイッセイミヤケのモデルを引き受けるなど、悠々自適に暮らす。長く理事長を務めていた軽井沢ゴルフ倶楽部では、数多くいた入会待ちの人間に対して、たとえそれがどんな政財界の大物であっても便宜は図らない等、その運営に徹底的なフェアプレイ精神を貫き通す一方、従業員にはいまだに慕われるほどあたたかく接していた。
エピソードをいくつか
■吉田茂に請われて敗戦処理の任に着いた直後、GHQの民政局長ホイットニー准将との初対面の席で
「キミは英語がなかなか上手だね」
「あなたも、もうすこし勉強すれば上手になりますよ」
■ある時、時の首相が軽井沢ゴルフ倶楽部でのプレイを要望してきたが、
「プレイしたければまず会員になれ!」
■ある日倶楽部にやって来た会員が、乗ってきた車の運
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人名・団体名05.12.21更新
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